津田塾の創立者津田梅子の本を読んでいてびっくりしたのですが、彼女は何と7歳でアメリカ留学したんですね。明治政府がこれから欧米社会に追いつくには、女性の地位や学力の向上が不可欠だ、ととっても進歩的な考えを持ったのは良いのですが、7歳、小学校1年生位の女の子ですよ。親の顔が見て見たいと思いましたら、一緒に留学したもう少し年上のお姉さん達も皆、士族の娘というのが多かったようです。
アメリカでは宗教心のしっかりした正統的な家庭にホームステイしていました。自分のお部屋を持って、ベッドで寝て、フォーク、ナイフのお食事をして、ピアノを弾いて、教会に行って、ワンピース着て、髪におリボン付けて。。。。とアメリカ人の嬢ちゃんの生活を18歳までしていました。
さて、帰国となっても当然のごとく日本語はうちのタコ息子程度のあやふやな日本語レヴェル。
帰国した1882年の東京。上流階級の世界ですら彼女はパンダだったそうです。着ている物、持っている物、髪につけている物を皆が触りたがったそうです。
現在でも数年外国に住んだ人が帰国した当時は戸惑いがあるようなので、当時の津田梅子がどんだけストレスを受けていたことか。
増してや彼女は莫大な留学費を日本政府から受けたにも拘わらず、帰国後それに見合う自分の位置が確立できないジレンマもあり、アメリカに一時期戻ったという事情は理解できます。
ピアノなんか弾ける人はいなかったとういうくだりで又びっくりしました。
1882年と言えば、ストラヴィンスキーが生まれた頃です。ショパンなんかとっくに死んでいます。ラフマニノフだって10年近く前に死んでいます。
日本には1872年にクラッシックの西洋音楽が入ってきて、それを軍楽隊が演奏していたそうです。笑っちゃうのは、ハイドンの葬送行進曲なんぞを演奏していたんですって。
1872年、音楽教育を小学校、中学校で強化し、そこで西洋音楽を多く取り入れ今に至っているようです。私が大好きだったあの薄ら暗くて、壁一面に作曲家のセピア色の顔が貼ってあった音楽教室はその当時からきっと変わっていなかったのだと思います。音楽の授業で覚えているのは、その暗がりでクラッシックを聞いていたことだけ。
当時の日本の作曲家と言えば滝廉太郎ですかね。鳩ポッポの。。。。
何度かこのブログにも書いたと思いますが、山手線の輪っか内程度の広さしかないパリ市内でも20区各区に区立の音楽学校があります。そこでは音楽とダンスのレッスンが充実した設備と教授陣を揃えて安く提供されます。他にも国立音楽院、地方音楽院、そして私立の音楽院、いずれも世界中から生徒が集まるトップクラスのレヴェルを保っている学校が勢ぞろいです。
クラッシックの西洋音楽家の方達、やはり1度ヨーロッパに来るべきです。音楽教育の環境が整っている条件だけでなく、作曲家の見ていた海の波、森の風、畑の光、木々の香り、空の色、雲の大きさ、日本にはないこれらを見なければなりません。
キフキフパリはお待ちしております。
明治時代と言えば鹿鳴館。野蛮で未開人と思われていたニッポンのイメージを払しょくしようと、外国使節団を呼んで舞踏会を開いたりの涙ぐましい努力は見えるものの、洋服の着方も食事の仕方もダンスも知らないんだから、そりゃそりゃ滑稽極まりない有様だったようで、津田梅子も、見とーないと顔を赤らめていたようです。
何故世にも美しい着物で通さなかったのか?何故希有の日本の文化で接待しなかったのか?
あれから130年あまり。日本人の骨の髄まで残っているそこの部分は脈々と続いているようです。