日本のゆとり教育の真っ最中だった甥がパリに来た時、彼のぼんやりした頭を急き立てるようにあちゃらこちゃら連れまわしていたある日、ほれここがヴィクトル ユーゴが住んでいた所よ、とマレ地区のヴォ―ジュ広場の回廊を歩きながら誇らしげに話しても反応なし。なんとヴィクトル ユーゴを知らないと告白しました。アイヤーァ。
軍人の父を持つ厳格な家のぼんであったヴィクトル ユーゴは19世紀のフランスを代表する文豪であり政治家でもありました。”ノートルダムのせむし男” ”ミゼラーブル”というミュージカルにもなっている小説といえばピンとくるかと思います。
19世紀のフランス文学なんかは読んでいなくていいのですが、しかしこの小説のお陰をもってパリの歴史的建造物が救われたとういう事実は忘れてはいけません。
例えば、パリ観光地でトップを争うノートルダム寺院。フランス革命で略奪されて散々な状態になった寺院は、すっかりみすぼらし廃墟の様になり、崩壊されるのを待つばかりの有様になっていたのが、”ノートルダムのせむし男”の小説のお陰で話題になり、皆に思い出されて、壊すなんてとんでもないと修復作業が始まり今私達を感動させてくれるパリの大切なスポットになっています。
パリの下水道もそうです。小説 ”ミゼラーブル” の舞台になり、そやそやと認識され今のように整備されました。見学できるので是非美しいパリの裏側を体験してみて下さい。
カルチエラタンにある1世紀にローマ人が造った古代競技場も、トラムを通すために壊される計画があったのですが、ユーゴが会員になっている古代競技場友の会の反対運動のお陰で、パリで一番古い建造物として今でもローマ人の形跡をしっかり残しています。
1885年、ユーゴが亡くなったと発表された日は国会も閉会されました。お墓はもちろんフランスに貢献した人を埋葬するパンテオンです。
日本では教科書にも載らなくなったようですが、フランスでは殆どの街にヴィクトル ユーゴ通りがあります。地元フランスでは偉人なヴィクトル ユーゴ。
昔は学校で暗唱する詩のリストに詩人でもあった彼の詩が必ず載っていたそうです。
”僕、シャトーブリアン以外になりたくない”と言ったほど子供の頃から物書きだったユーゴは名言を沢山残しています。その中でも ”生きている者とは闘っている者だ、運命の高い険しい峰をよじ登る者のことだ” という言葉にはふんふんと首をこくこくします。
女性に対する情熱も熱かったのですが、子供もとても好きで、孫をうっとり眺めながら ”子供がいつもよちよちしているのは、天国の思い出にまだ酔っているから” なんて言う素敵な言葉を残しています。
ヴォ―ジュ広場のヴィクトル ユーゴ博物館は、19世紀のアパートの造り、装飾の傾向などを見るだけでも面白いと思います。無料だし、是非どうぞ。