先日は病院でしたが、今日は全くの別件でお墓です。
友達のお父さんが亡くなりました。1905年生まれ、106歳でした!
この父さん106年間自分勝手な事ばかりしていました。彼はロシア人です。名前からアルメニアの貴族出身と見て取れます。
当時彼はオペラ座のクラリネット演奏者でした。ヨーロッパツアーでパリに来た時、どさくさに紛れて亡命してしまいました。ロシアに妻と息子、娘をほっぽり投げて。
パリで政治亡命者としてのヴィザで仕事も見つけ、もちろん女の人も見つけ、アパートも買って、平穏に暮らしていました。
月日は光のごとく過ぎて、一緒に暮らしていた女性は亡くなりました。1人になったお父さんは、そういやロシアに私の家族がいたっけな。と思い出し、人を雇って家族探しを始めました。
妻は既に亡くなっていました。息子もロシア人としてご他聞に漏れずアル中で若死にしていました。この息子の写真やお父さんが書いた息子の似顔絵を何枚も見ましたが、ヒッ!とするぐらい美しいんです。この人、生き物なの?くしゃみしたりいびきかいたりするわけ無いわな、というぐらいの美です。
それで唯一生き残っていたのが娘。お父さんの血を引いて音楽家になっていました。
コンセルヴァトワールでチェロの先生をしながら、ラジオでチェロを弾いたりして、身も心もどっぷり音楽に浸かっていて、結婚することも忘れて独身でチェロだけを抱いて生きていました。
ラジオで弾いていたと聞いた時、ピンとこなくて、今日のゲストです。って感じで弾いていたんだと思い込んでいたんですが、映画『戦場のピアニスト』を見て、あーこの事かとやっと分かりました。
時代なのか、東欧というお国柄なのかラジオで音楽を流すとき、レコードとかCDとかを掛けるのでなく、生身の音楽家が演奏する実況中継をしていたんですね。豊かなもんです。
ですから彼女は先生とラジオ屋をして彼女なりに充実した平穏な生活を送っていたわけです。
そこへ、お父さんの使えが来て、あなたのお父様がパリであなたの事を待っています。なんて告げるのです。晴天のへきれきです。
当時はソ連の時代です。庶民が海外に出るなんて宝くじに当たったようなもんです。それも花の都パリ!
まわりの人々に散々羨ましがられたり、ひがまれたりしながら、今まで彼女が築いてきたもの全てうっちゃって、スーツケースを楽譜でぎゅうぎゅうにして、チェロを背負って、電車でパリへ向かいました。
それからの彼女の人生はお父さんの家政婦となりました。
なにしろ彼は難しい人です。家に来て良い人は3人だけ。2人は彼の音楽仲間の爺さん友達。もう1人は娘の友達であるこのあたしです。
ヨーロッパの上流階級では男性は女性に挨拶する時、ホッペでなく、手にキスをします。これは本当に女性の手にぶっちゃりキスをするのではなく、要領としては、手の匂いを嗅ぐという感じです。
あたしが始めてこの『手』の挨拶をされたのがこのお父さんです。家にいる時でもいつもきちんとYシャツを着いて、皮靴を履いていて、品が良いんです。決してお金持ちでは無いのですが、豊かなんです。
晩年、自然の流れで耳が遠くなり、殆ど聞こえなくなりました。が、クラッシック音楽がラジオから流れていると、音が外れてるぞ!と吼えるんです。横で娘と私がおしゃべりしていても聞こえていないのに。
彼は、よく東欧の人々の間で見られる、文化を日用品にしている人でした。私が一番嫉妬する事です。
尊敬すべき、そして愛すべき、自己中父さん!
彼の娘である私の友達の話も傑作なので、そのうちお話しましょう。
菩提樹の香りがほんわりして、つぐみが歌合戦している良いお墓でした。